誉田八幡宮について
誉田八幡宮は、応神天皇陵後円部に鎮座し、古くから御陵の祭祀を司ってきた神社です。 かつては、戦の神として武士の信仰が 篤 く、現在は、「安産・厄除け」のご神徳で親しまれています。
ご祭神
中座 第十五代 応神天皇
(厄除け・戦の神)
左座 第十四代 仲哀天皇
(家内安全・良縁の神)
右座 応神天皇の母君 神功皇后
(安産・子育て・武運長久の神)
以上の3柱の神様と「海・ 祓 」を司る神である住吉大神、一座 神秘の5座を併せ、誉田八幡宮と称しておまつりしています。
当宮の特徴
応神天皇陵後円部に鎮座しています。
応神天皇というと八幡様でもあらせられます。全国に4万4千社あるとされている全ての八幡宮において主祭神として応神天皇がおまつりされています。
その応神天皇陵に神社として鎮座しているというのが当宮の一番の特徴です。
誉田八幡宮の由来
当宮の歴史は、応神天皇陵をおまつりする信仰からはじまっています。
誉田八幡宮は、御陵の後円部の方に鎮座しています。 当社の宝物「誉田宗庿縁起」永享5年(1433年)将軍 足利義教奉納)によると、 西暦559年に欽明天皇の勅願によって御陵前(後円部)に社殿を建立し、八幡大菩薩を勧請した。と記されています。 あくまでも縁起の話ですが、これを誉田宗廟といいます。
「誉田宗庿縁起」御陵後円部の社殿の様子
そして後冷泉天皇の時代(1051年)に、現在の位置に移転改修された様子が描かれています。 というのが縁起のあらましですがおそらく御陵をお祀りする信仰があり、八幡信仰がさかんになった時代に現在の神社の形が整えられたと考えられます。
武士の八幡信仰の広まりによって、当宮も栄えた。
やがて源家の氏神が八幡であるという信仰が広まると、しだいに誉田八幡宮は将軍家をはじめ、源氏を名のる武士たちの信仰を受けるようになりました。 その後、足利、豊臣、徳川家など様々な武将たちから戦の神・守り神として大切に信仰され、盛大におまつりが執り行われてきました。
天保9年(1838年)の誉田八幡宮
神宮寺として長野山護国寺を併存し、壮大な規模であったことが当時の古図から窺うことができます。しかし残念ながら、明治の神仏分離、廃仏毀釈によって、護国寺の大半は無くなってしまい、当時の遺構として、今は、南大門を残すのみとなっています。その後、戦後の貧しい時代を乗り越え、現在も、安産・厄除けの神様として地域の方や崇敬者の方たちから親しまれ大切におまつりされ続けています。