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国宝・重要文化財

宝物庫

営業時間:土曜午後1時~午後4時まで拝観可能
拝観料:400円

宝物の御紹介

 国宝(古墳時代)
(こんどうすかしぼりくらかなぐ)
金銅透彫鞍金具 2具

   嘉永元年(1848)8月、応神天皇陵陪塚丸山古墳から発掘されたもので、2具の鞍金具と、金銅轡鏡板、金銅花形辻金具、鹿角装刀残闕、鉄鏃、鎧等残闕などの一括品がある。

画像は、1号鞍の後輪で馬に装着する鞍の後ろの部分に取り付けられていたものと思われる。金銅透彫鞍金具は竜の文様が唐草ふうに透彫りされており、それぞれの竜が中央に向かう形で連続して配列されて鞍橋の表面全体をおおっている。ちなみに2号鞍は、一号鞍よりも少し小さく作られており、女性用ではないかという様な説もある。2対同じ場所で出土したことは、大変珍しい例。

これらの鞍金具は、日本で作られたものではなく、半島から持ち込まれたもの。四世紀頃から盛んになった日鮮交流によって大陸の進んだ文物技術が移入されたという歴史的背景を如実に物語っている。
また、製法手法の精巧さ意匠の壮麗な点で古代美術工芸の面からも欠くことのできない貴重な資料である。

国宝(鎌倉時代)
(ちりじらでんこんどうそうしんよ)
塵地螺鈿金銅装神輿1基

建久年中(1190年)源頼朝の寄進と伝える。屋上に鳳凰を頂く木製の方輿。
漆塗り、梨子地に螺鈿(貝殻を用いた装飾法)をほどこし、屋蓋ほかの要所を金銅製金具で補強する。
軒先からは宝相華文透かし彫りのある幡を垂れ、軒下には同文の帽額並びに八花形の鏡をはめこんだ透かし彫りの花鬘12枚を垂れる。輿の四周に下げた布地も当代の錦織で遺例の極めて少ないもの。建築・漆工・金工・染織と鎌倉期美術工芸の粋を集めて作られた神輿で貴重な資料である。

                         

この神輿は、当時の秋の例祭である放生会(お祀りしている神様を当宮の本殿から、一旦御陵の方までお戻りいただくお祭り)の際に担がれていました。
当時は、僧侶と神職の方たちが一緒になってお祀りを執りおこなわれました。
明治の廃仏毀釈によって、残念ながら現在は神職だけになってしまいましたが、今も新しいお神輿をつかって、渡御の神事として毎年9月の15日午後8時より祭禮を行っています。

重要文化財(室町時代)
誉田宗廟縁起 3巻
(こんだそうびょうえんぎ)

 この絵巻は誉田宮を応神天皇の御陵前に造営した由来と八幡大菩薩の霊験を描くもので、八幡宮縁起ともいう。誉田宮は古来武家の崇敬が厚く、このことから永享5年(1433)、将軍足利義教がこの縁起を奉納した。

 絵巻には、当宮の始まりである誉田宗廟に、聖徳太子や空海など偉人達が参篭した様子や不思議な出来事が描かれている。絵は人物、山水の表現に秀れた手腕がうかがわれ、濃婉な彩色を駆使して精緻に描く。室町期絵巻物の一級品といえるものである。
奥書に旧本が損傷したので新図したと記すように描法、構図に古様がある。狩野探幽は絵の筆者を土佐光信と鑑定したが、年代的に当たらない。
しかし、絵の様式は土佐派のものに相違ない。詞も当代一流の能筆の書と推定される。

重要文化財(室町時代)
神功皇后縁起 2巻
(じんぐうこうごうえんぎ)

 応神天皇の生母である神功皇后の三韓遠征の物語を中心として数々の一代の事蹟を絵巻物としたものである。

 上巻・下巻、詞、絵ともに各5段からできていて、上代の武具、服装など風俗には無関係に、当時の合戦絵巻類を参考にしながら描いている。

 赤、青、緑を多用した濃彩と、人物、建物などの細かい描写が特徴で、画風は伝統的な大和絵様式によったものである。

将軍足利義教が永享5年(1433)に「誉田宗廟縁起」とともに奉納した。
後年、狩野探幽はこの絵巻を披見し、絵の筆者を土佐光信と鑑定したが、年代的に当たらない。

重要文化財(鎌倉時代)
蔦松皮菱螺鈿鞍 1背
(つたまつかわびしらでんくら)

国宝の神輿(1190年)とともに源頼朝から寄進を受けたものの一つである。
後代の鞍にくらべ、前後輪とも肉厚で、これに銅の覆輪をかけている。爪先の猪の目も先端部が縁から連続している初期の様式であり、総体に質実な鎌倉時代の形式を伝えている。
居木には山道形を交差させて作るいわゆる松皮菱の文様を螺鈿であらわしている。
松皮菱文様は鎌倉時代以降の調度・染織品など工芸品にままみられる意匠であるが、このように黒漆地の上全面に螺旋で表現されているのは珍しく、きわめてすっきりした味わいがある。

重要文化財(鎌倉時代)
後撰和歌集 巻二十 伏見天皇宸翰 1巻

 村上天皇の天暦5年に勅撰された後撰和歌集を伏見天皇が書写したもの。
奥書に永仁2年11月5日とあり、天皇29歳の時の筆写である。
鳥の子、打曇の料紙を用い、詞書を平仮名、和歌を真名(万葉仮名)で書写している。
天皇は後深草天皇の第2皇子で、正応元年(1288)に即位した。
歌と書に秀れた才能を示し、玉葉和歌集を選集するとともに多くの宸筆を遺している。
書風は世尊寺流をもとに道風、佐理の風を学んで独自の筆格を表している。この歌集は壮年の筆跡ではあるが肥痩の少ない力強い筆到に気品の高い趣があふれている。

重要文化財(鎌倉時代)
舞楽面 陵王2面
(りょうおう)

 蘭陵王、羅陵王ともいう。中国北斉の蘭陵王長恭は武勇才智ともに秀れた武将であったが、美貌であったので戦場に赴く時は恐しい仮面をつけて出陣したという。この蘭陵王の武功を讃えたのがこの陵王舞である。勇壮で華麗な舞は装束、面ともに豪華絢爛である。当宮には2面の陵王面があり、一は弘安7年(1284)円信が奉納したもの、他は銘はない。
両面とも竜頭や全体の構成に形式的な彫扱がみられるが、毛筋や飯の表現に美しさがある。

当宮では、5月8日の藤まつり際に午後一時から、奉納行事を行っています。その複数の演目の中に、別のお面をつかってではありますが陵王を奉納するときもあります。

重要文化財(鎌倉時代)
舞楽面 天童1面
(てんどう)

舞楽には天童と称する楽曲はないので、童子舞に用いた面と推定される。鎌倉時代以降に童舞を演ずることが多く行われ胡蝶の舞は代表的例であるが、これに面をつけないので天童面がどの楽曲で使われたか明確にできない。当宮の天童面は小ぶりであるので童舞との関係のふかいことを推測させる。麻布貼りの上に彩色を施し、繊細な表情表現ではないが緊張した童顔が美しく現されている。裏面の銘により弘安2年(1276)8月に僧覚円が奉納したことがしられる。

重要文化財(鎌倉時代)
竹葉八幡神像(狩野探幽筆)1幅
(ちくようはちまんぞう)

欽明天皇の代に豊前宇佐の蓮台寺の奥で3年間の精進潔斎した老翁の前に小児の姿をした八幡神が現れたさまを描いたもの。小児は「我は応神天皇で護国のために霊威を示す八幡大菩薩である」とのべたという。この竹葉八幡神元現の物語は永享5年(1433)将軍足利義教が奉納した神功皇后縁起絵巻の中に描かれており、探幽はこの画題を模して描いたものである。狩野派の画家でありながら大和絵調の画風が特色を示している。寛文6年(1666)、65歳の時の筆で、この年探幽は誉田宗廟縁起、神功皇后縁起を披見しており、誉田宮にこの竹葉八幡神像が伝存するのも故なしとしない。

きぬがさ形木製品
応神天皇陵周濠出土
(古墳時代)

応神天皇陵の周濠(ほり)から出土した木製の埴輪。(きぬがさ)とは、絹の布などの植物の繊維で作られた柄の長いかさのことで、高貴な人にさしかけたもの。
この埴輪は、きぬがさを木で再現したものである。木の柱と供に発見された例もあり、他にもきぬがさの飾りをかたどったものが出土したため、きぬがさの傘の部分であることがわかった。御陵を飾るために周りに建てられていたものと考えられる。

檀輾(だんじり)

3輪の古式のだんじり。舞台が組んであり、上部には、大きな傘が据えられていた。かさの上には作り花をかざり、手摺(てすり)以下に、さらさ模様の幕をたらし、車上には楽人、稚児をのせ、笛、太鼓、鉦をはやしたて村内を東西にわけて、二十歳以下の若人に曳かれた。5月8日、若宮〈夏祭り)の例祭に檀輾二輌曳行されていた。

 

享和元年(1801年)の河内名所図会に記録されており、だんじりの始まりとの一文がある。
※この檀輾が曳行されたのは、明治までで、現在は4輪のものが秋のだんじりまつりに曳航されています。