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応神天皇陵について

応神天皇陵とは

4世紀後半に存在したとされる変革の王が眠る御陵

第十五代応神天皇は、御名を譽田別尊(ほむたわけのみこと)と申し上げます。その御治世には、国家体制や社会基盤の整備が進められ、さらに高句麗・百済・新羅など朝鮮半島の国々との外交を積極的に進められ、最初の大規模な渡来人の来朝も天皇の御代のこととされています。

渡来人を通じて鍛冶や乗馬の風習、儒教や漢字、縫製の技術や知識などを大陸や半島から持ち込み国家の発展に大きな役割を果たしたと考えられます。このほか「古事記」「日本書紀」には、媛達を想って読まれたという歌謡が多く載せられており、天皇の情愛豊かな御性格の一端をうかがうことができきます。そんな古代の大王が眠るとされる御陵が羽曳野市誉田にある応神天皇陵(惠我藻伏崗陵-えがのもふしのおかのみささぎ)です。御陵は、墳丘の全長は日本一の仁徳天皇陵に次ぎ、その体積は日本最大の規模を誇っています。

応神天皇陵の形と特徴

日本最大の体積を誇る前方後円墳型の御陵

大きさ 墳丘長約 425m
高さ 36m(10階建てのビルに相当)

応神天皇陵古墳のかたち

空から見た応神陵古墳は、円形の丘(後円部)と台形の丘(前方部)とを組み合わせた形をしています。前方後円墳と呼ばれるもので、後円部の中心には、御陵の主が鎮まり、前方部の頂上では、埋葬や代替わりのための儀式などが行われていたようです。前方部と後円部の接するくびれの部分には、台形に張り出した造出しがあり、ここも墓の主人に対するまつりの場と考えられます。応神天皇陵の盛土は、大きく3段に積み重ねられていて、斜面途中の2か所にはテラス状の平らな面がめぐっています。雨で盛土が崩れたりしないように、表面には、川原や山の麓で集めてきた石を厚く一面に敷き詰めています。現在はすっかり森になっていますが、完成した直後には石を積み上げた丘のように見えたと思われます。墳丘の周囲には、深い濠(ほり)と堤が巡らされており、元はさらにその外側にも濠と堤を巡らせていた形跡が存在しています。現在は、一重目の濠と堤のみ確認することができます。応神陵の特徴として、内定の左側に御陵が重なった形になっています。

この御陵を現在は、二ツ塚古墳といい、元から存在していた二ツ塚古墳をそのままにして、あとから応神陵を、かなり無理をして割り込ませて造ったためであると考えられています。