境内のご案内
誉田八幡宮 拝殿
東面する入母屋本瓦葺で間口十一間、奥行三間の細長い木造建築でいわゆる割拝殿の形式であって正面中央部を拝所とし向拝(ごはい)部分は、唐破風造りで蛇腹天井となっている。詳しい年代は判明していないが、一説によるとこの建物は、慶長十一年(1606)に豊臣秀頼が普請奉行に片桐且元を任じて再建させたもので、完成直前に大阪の役(冬の陣、夏の陣)が勃発したため八割方でき上がったまま放置されていた。その後、徳川家光が再建工事を続行して寛永年間の初期に竣工したものと考えられている。この拝殿は、天井が張られていないので木組のありさまが観察することができる。徳川家によって最後の仕上げがなされたので、三ツ葉葵の定紋が付けられている。八幡宮ということもあり、仏式の性格が強い建築様式となっている。
放生橋 (ほうじょうばし)
9月15日秋の渡御の神事の際にこの橋を渡って御陵の方まで向かった。
※現在は、橋の老朽化のため横の橋からお渡りしています。橋の柱の部分に富田林という文字があり、富田林は江戸時代にできた町であるため、江戸時代に作られた橋であるものと思われる。
朝鮮国王灯篭 (ちょうせんこくおうとうろう)
朝鮮国王が寄進したとされる石灯篭。年代は不明であるが、古くから半島との交流があったことが窺われる。
菅原道真公 祈座石 (すがわらのみちざね きざせき)
おば様である覚寿尼(かくじゅに)が住んでいる道明寺に滞在していた菅原道真公が、誉田八幡宮に訪れた際、この石の上に座り祈りをささげたとされる。道真公が参籠したときに童子が現れ宝剣を道真公に授けたという伝説が当宮の宝物である誉田宗廟縁起に記されている。
十三の塔 (じゅうさんのとう)
多くの部分が失われているが、本来は13重と推定される層塔の一部で、軸部とその上にのる4層分の屋根型の」笠部が残っている。やわらかく加工が容易な二上山で産出する凝灰岩を用いられ、風化が著しいが、屋根の表面と軒裏の面に当初の姿をとどめている。
平安時代後期から鎌倉時代前期の頃に製作されたと考えられる。
放生池 (ほうじょういけ)
かつて放生会というお祭り際にこの池から小魚をすくい御陵のお堀に生き物を放つ神事で使われていたと思われる。
江戸時代の古図にもこの池が存在している。
神馬 (しんめ)
誉田八幡宮には、『日本書紀』雄略天皇の条に記された赤馬伝説の「おうまやの跡」があり、馬形埴輪庁も見つかっている。また、応神天皇陪塚丸山古墳から出土した国宝金銅透彫鞍金具や源頼朝寄進の重文鳶松皮菱螺鈿鞍など多くの宝物が社宝として伝えられている。この神馬は篤志家により寄進されたもの。
南大門 (なんだいもん)
現在、誉田八幡宮の正門は、旧高野街道(京街道ともいう)に面している東門であるが、南の出入口にある切妻造で大葺の立派な四脚門はこの神社の門ではなく江戸時代に八幡宮の神宮寺であった長野山護国寺の門である。切妻の部分には、徳川家の三ツ葉葵の定紋が付けられている。 神宮寺であった長野山護国寺の本堂はこの南大門の西方正面に位置していたらしく誉田八幡宮古図 天保九年(1838年)から知ることができる。